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解説

この局面は初手より▲7六歩△9四歩と進んだ局面である。1937年2月5日、読売新聞主催の「阪田木村大棋戦南禅寺の決戦」木村義雄-阪田三吉において、後手阪田が2手目に端歩を突き世間を騒がせたことで有名。

対局まで

阪田は1925年当時険悪だった東京大阪棋界の争いに巻き込まれる形で「大阪名人」を名乗り、そのことは当時の東京将棋連盟から追放される一因となった。始めは大阪朝日新聞の嘱託でもあり阪田支持者も多かったが、嘱託を神田辰之助に奪われ支援者も減って行き阪田は孤立の度を深めることになる。その後も東京大阪で争っていたが、1936年には関西の木見金治郎派と神田派が、現在の連盟の前身、将棋大成会に参加し阪田はついに完全に孤立する。ここに至って切羽詰った阪田は復帰を模索、1937年将棋大成会に復帰することとなった。そこで読売新聞が阪田復帰記念として、木村と南禅寺、花田長太郎と天龍寺でそれぞれ持ち時間30時間、1週間にわたる一番勝負が行われることとなった。

木村の決意

当時の木村は次期名人候補と目され、名人戦の主催だった毎日新聞や将棋大成会からこの対局を猛反対されたという。阪田は66歳、木村は32歳、木村が敗れたとなれば名人位の威厳に関わるとされたらしい。しかし木村は阪田との対局を熱望し、対局に反対し続けるならば将棋大成会からの離脱も覚悟した。とうとう周囲は折れ、南禅寺の決戦は実施されることになった。

阪田の端歩突き

66歳の高齢、持ち時間が30時間という長時間、10年以上のブランク、阪田の苦戦は必至と見られていた中で対局は始まった。木村は初手▲7六歩、対する阪田は端に手をやり△9四歩。当時の将棋の理念から大きく外れた一手だった。局後阪田はこの手について話すことなく亡くなったため真意の程は不明である。関西棋界を背負ってきた阪田の東京に対する反骨の一手、というのが一般的な説となっている。

木村の対応

木村の3手目は▲5六歩。当時の棋界では現在より中央が重視されており、阪田の端歩を緩手にするために5筋の歩をついた。以下△3四歩▲5五歩となり木村は5筋の位を取る構想を見せた。阪田は向飛車で対抗するも端の一手が響いた形となり95手にて木村の勝ち。奇手△9四歩は不発となった。その後の花田との天龍寺での決戦では後手阪田が2手目△1四歩と逆の端歩を突いたが、この対局でも敗れた。この決戦後しばらくして阪田は引退することとなった。

参考データ

有名局

先手後手棋戦対局日勝敗コメントリンク
木村義雄阪田三吉阪田木村大棋戦 南禅寺の決戦1937-2-5先手勝棋譜

類似局面

変化点リンク
天龍寺の決戦 先手花田▲7六歩に後手阪田は△1四歩と逆の端歩を突いたGo

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